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丹後半島の日本海側を走っていると、
『立岩』という看板を見つけて、
そこへ行ってみたくなった。
この辺りは、間人と書いて、
「たいざ」と読む。
絶対読めない地名だ。
もともと日本古来の信仰は、
山だったり、大きな岩だったりしたのだと思うが、
この立岩を見た瞬間に、
この地も間違いなく信仰の対象だったと確信した。
駐車場に車を停めた時は、
砂浜の向こう側にある立岩までは
結構距離があるにも関わらず、
その存在感は圧倒的だった。
砂浜を歩いて、だんだん立岩に近づく。
近くまで来るとその巨大さが
より臨場感を増してくる。
福井の東尋坊や雄島にも見られる柱状節理の特徴があった。
周囲1kmにも及ぶ巨大な一枚の玄武岩から出来ている。
古代に大陸からの渡来船が漂着したところといわれる。
また、用明天皇の皇子で聖徳太子の異母弟といわれている
麻呂子親王の鬼退治伝説の地でもある。
帰ってからネットで調べてみると、このようなことが書かれている。
立岩(たていわ)の由来
丹後町には多くの伝説・伝承が息づいています。
「間人」には聖徳太子の生母であり、
第31代・用明天皇のお后である間人皇后の伝承が残っています。
この立岩にも伝説が秘められています。
用明天皇の第三皇子麿子親王が
鰾古・軽足・土車という3匹の鬼を退治された時、
二匹は殺し土車だけはみせしめのため、
この大岩に封じ込めたといわれています。
今でも風の強い、波の高い夜などは、
鬼の号泣する声が聞こえるといわれています。
柱状玄武岩のそそり立っているところから立岩とも呼ばれ、
日本でも数少ない、自然岩の一つです。
もうひとつの疑問、どうして間人と書いて、
「たいざ」と読むのかについても調べてみた。
丹後半島北西岸に位置し、やや日本海に突出している。
東部を竹野川が北流する。
聖徳太子の生母・間人(はしうど)皇后が蘇我氏と物部氏との争乱を避けて
丹後の当地に身を寄せ、のちに当地を去るに当たって
自らの名をこの地に贈ったものの、
住民は「はしうど」と呼び捨てにすることを畏れ多く思い、
皇后が退座(たいざ)したのに因み間人を
「たいざ」と読み替えた、との伝承が残る。
但し間人皇后が丹後に避難したとする記述は記紀に無く、
由来には他にも諸説がある。
死者を大陸に向けて埋葬する風習が長らく残っていた。
福井県の若狭地方や丹後半島は古くは、
大陸からのまさに玄関口だった。
そのため様々な大陸からの影響を受けているのではないか。
まだまだたくさんの歴史や隠された伝説などが、
あるのではないかと思った。
今回の丹後半島の旅はわずか2日間という
短い時間であったが、
その魅力の一部を垣間見ることが出来た。
また機会を見て、旅したいと思っている。
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