昨年からNKHの大河ドラマだけは見るようになった。
それは一昨年、高知を旅したことがきっかけとなり、
『龍馬伝』を見ていたのだが、その地を旅する時に、
その地の歴史を知っているか、そうでないかでは
旅の楽しみ方も雲泥の差が出ると感じたからだ。

そして今年は福井にも関連する『江』
その中でつい先週、本能寺の変の主役となった明智光秀が、
たつやが住んでいる福井県鯖江市から
程近いところに住んでいたことがある。

それは昨年5月に、たまたま通りかかった田舎道に
『あけっつぁま⇒』という看板を見つけた。
いったい何のことだろうとその矢印の方向に車を進めると、
左手に小さな祠があって、そこが神社だった。
なんと、そこが明智光秀を祀った明智神社だったのだ。

神社の鳥居の脇に小さなプレハブの建物が建っていて、
中には明智光秀に関する資料が飾られている。
戦国時代に絶世の美女として、またキリシタンとして有名だった
細川ガラシャはココで明智光秀の三女として生まれた。



しかしながらどうしてこの地に明知光秀が住んでいて、
またある意味、戦国時代の裏切り者の代表となる光秀が、
この地で400年もの間、村人たちによって現在まで
ずっと切れることなく守られているのかが、不思議だった。
その日は薄っぺらな情報だけを持ち帰ったのだが、
何と、そのあけっつぁまに行った2日後にその謎が解けたのだった。

詳しくはこの日のブログを参照して欲しいが、
http://onmyojitatsuya.seesaa.net/article/151599907.html
たまたまヒナタカコさんと横田はるなさんが出演する
イベントがあって、彼女たちの歌を聴きたいがために、
出かけた先で、聞いた講演がまさに『あけっつぁま』。
三国町出身の女流歴史作家の中島道子先生の講演会では、
まさに明智神社の話を中心に、明智光秀の生涯のお話だったのだ。

あれからもう半年以上経って、再び明智神社を訪れました。
雪が少し降っていた頃で、寂しい神社はモノクロームの世界の中でした。
歴史のことを知り始めると、いろんな歴史上の人物関係がわかってきて、
ますます面白くなってきます。
最近では歴女とかいう人たちも結構いるようですが、
なんかよくわかります。
ここ越前にはたくさんの歴史浪漫があります。
そういう歴史の宝を発掘して発信することによって、
まちづくりの一端を担うのではないかと思います。

福井県や福井市も今年になって
ようやく『江』ブームに乗ろうとしていますが、
一年遅い気がします。
滋賀県辺りはもう1年以上前から『江』をうまく観光戦略に取り込んでいます。
福井からも歴史浪漫を多いに発信すべきだと思います。

興味のない人は読んでいただかなくてもいいと思いますが、
たつやが疑問に思ったことの答えがインターネット上に出ていたので、
参考として掲載したいと思います。
福井市東大味町(ひがしおおみちょう)に「あけっつぁま」と呼ばれる小さな祠があり、
その中に高さ13cm程の木彫りの座像が奉られている。
これは明智光秀(1528〜1582)の木像で400年余り、
東大味の3軒の農家に大切に守り続けられてきた。
祠は100年程前に土井内さんら3軒の農家の先祖が建てたという。
明智神社の周囲はのどかな畑や水田が広がるが
耕地の下には取り除けないような大きな石が残り
近くに当時の物と思われる苔むした石垣も見られる。
光秀の邸宅跡に住む3軒の農家のうちの1軒である土井内さんの話を伺う事ができた。
土井内さんが光秀のものだと言う墓石には
「理言久意信士天正十年六月十三日」という文字が認められる。
天正10年6月13日は光秀敗死の日である。
1575年信長の命を受けた柴田勝家軍は一向一揆掃討作戦を開始、
府中(武生)を中心に家々を焼き払い3,4万もの命を奪った。
一向一揆に加担しなかった農民も山中深く逃げ込みどの集落ももぬけの殻であった。
この状況の中、光秀はかつて住み家族と親しく過ごした東大味の住民を守るために
柴田勝家・勝定兄弟に東大味地区を守らせる安堵状を出させた。
1582年光秀が主君信長を討って逆臣という汚名を着せられたが、
3軒の農家は光秀の遺徳を忘れず400年にわたり光秀の木像を奉ってきた。
後の世まで明智光秀の遺徳を偲んできたのは福井の土井内さん達だけではない。
福知山の400年にわたる御霊祭(みたままつり)は光秀の死後に、
その善政に感謝して始まったものであり御霊神社には光秀が祀られている。
光秀は今もって福祉行政の元祖と言われる程領民を手厚く守った人だった。
それにも関わらず、その後も江戸時代の儒教精神や
明治時代の軍国主義の風潮の元で逆臣とされ、
明智神社を守ってきた土井内さんも近年までは白眼視されたと言われた。
近年、光秀やガラシャがNHK等の全国放送で取り上げられ、
県内外からの取材が増えているという。
越前・若狭紀行より転載いたしました。
http://www.eonet.ne.jp/~etizenkikou/index.htm
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すっかり普通の数字に戻っちゃいました。
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私も、4年前のゴールデンウィークに訪れていて、感慨に浸ったひとりです。
仰る通り、福井県は観光観光と言う割には、大河ドラマを戦略的に取り込むのができてないと思います。
ホントだったら、昨年の龍馬伝だってモロに福井も舞台だったのに、、、と悔しがる自分がいましたし(泣)
さすがですね〜。
歴史上では福井はホントに宝庫みたいなところでしょう。
なのに県はいつも後手後手に廻ってしまっている感じ。
やっぱりお堀の中のお殿様だからなのか・・・。
実はこの東大味町は私の父の実家があり、西蓮寺は蔵を挟んですぐ裏手です。
住職の居ない 寂れたお寺だったので、歴史的つながりのあるお寺だとは、お祭りなどが再興されるまで知りませんでした。
私の先祖もまた、あけっつぁまに守られてきたのだと 本当に不思議な繋がりを感じます。
それに明智光秀がこの地で暮らしたから、
この村だけが織田信長軍の被害を一切受けなかった・・・
とすれば、あけっつぁまがいなければ、
きりさんもいなかったかもしれないのですね。
不思議なご縁を感じざるを得ませんね・・・。