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京都に行ったら一度は訪ねたいと思ってた場所があった。
観光地とか有名な神社とかお寺ではなく、
父が学生時代を過ごした同志社大学のキャンパスだ。
昭和7年生まれだった父が同志社大学に入学したのは昭和25年。
戦後まだ5年という動乱期で、
連合国軍最高司令官総司令部いわゆるGHQの占領下にあった。
新しいもの、珍しいモノ、機械モノが好きだった父は、
入学と同時に同志社大学のグライダー部の門を叩いた。
制空権も日本にはなく、グライダー部とは言え、
自由に空を飛びまわることは出来なかったそうだ。
自転車のチューブのようなゴムをつなぎ合わせて、
大きなパチンコのようなもの作り、それにグライダーを引っかけ、
それを皆で引っ張って、その力を利用して、飛ぶ練習をしたり、
時には小型機に引っ張ってもらい上昇、
その後ロープを切り離して、滑走路に降りてくる練習などをしていた。
父は飛行機乗りに憧れ、京都での学生生活をグライダー部の一員として過ごした。
卒業時には、大手の航空会社に入るか、うちの稼業である印刷所の跡を継ぐか、
かなり迷ったと聞いたことがあった。
その頃、同じグライダー部に所属していた友だちや、
関西六大学のグライダー部の集まりは、その後もずっと続いていた。
年に一度の同窓会にも必ずと言っていいほど出席していた。
晩年父は年々仲間が鬼籍に入ってしまうことを悲しんでいた。
それでも自分が幹事になると病床の身をふるい立たせて、
9人乗りの大型バンを運転し、食事場所や温泉の手配、
恐竜博物館の案内、お土産の手配まで、完璧なまでにこなしていた。
その後、そのバンに乗った時、トランクに新品の透明傘が9本あったので、
どうしてこんなに傘があるのか?と尋ねたら、
その同窓会用に用意したものだということだった。
話を聞いて、親父らしい!
と妙に納得したことを昨日のことのように覚えている。
同志社大学に立ち寄れる時間は限られていた。
本当なら、ゆっくりキャンパスを歩いてみたいと思っていたが、
この日は他の用事がいくつも入っていて、
ほんの短い時間しか滞在することは出来なかった。
それでもキャンパスの雰囲気や、
父が若い頃にここで過ごしたという空気や香りを、
ほんのわずかながら感じることが出来た。
ちょうどお昼時だったので、お昼ごはんを食べることにした。
ハンバーグランチは600円と言ううれしい価格。
今の学食って、こんなにお洒落なの!?と思うくらい素敵なたたずまいだ。
ヨーロッパのカフェを彷彿させる外観と、センスある内装は、
学食というイメージからは対極に位置する感じがした。
週末だったこともあってか、学生よりも一般客の方が多い感じだ。
厨房の中のスタッフは、若い人たちばかりで、
もしかすると同志社の学生さんがアルバイトしているのかも知れない。
こうして大学のキャンパスにいると、また学生に戻りたくなる。
自分が過ごした東京の大学よりも、父が過ごした京都の大学の方が
何となくいい感じがしたのはどうしてだろうか?
父の法名は『光雲院釋武徳』
今頃、光り輝く空でグライダーの上から、
同志社大学のキャンパスを歩くたつやを見ているのだろうなぁ・・・
秋の高い空を見上げた。
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