2013年04月26日

喜寿記念文集『河和田の絆』

2年ほど前に、たつやの姉が中学生だった時に担任をしていただいたY先生が、
うちの印刷会社を訪ねてくれました。
たつやも習ったことはなかったのですが、理科準備室という理科の先生の部屋へは、
毎日のように遊びに行っていたので、中学時代からY先生のことはよく知っていました。

「あの〜、藤田くん、実はね今年私喜寿なんです。
そこで同級生が集まって文集を作ろうって話になりましてね、
ちょっと相談に乗って欲しいんです。」


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その時、喜寿を迎える方たちが集まって、
小中学校の同級生で文集を作るということにとても感動しました。
それから1年半が過ぎて、今年に入って、再びY先生が弊社にいらっしゃいました。

「藤田くん、ようやく何とかなりそうです。あの喜寿の文集です。
いろいろあって、大変でしたが、やっと藤田くんに渡せるまでになりました。」

手にはぷっくり膨れた大型の封筒と、風呂敷に包まれたアルバムがありました。

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中学卒業以来、60年以上経って、各地に散らばった友だちに連絡を取り、
なかなか揃わない原稿を集め、亡くなった友だちに対する追悼文を集め、
古いアルバムや写真を探し出し、ようやく集まった原稿でした。

「藤田くん、コレは私の家が火事になった時に
一番に持ち出せるようにしていたんです。
これはもう二度と集めることが出来ませんから。」


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印刷の仕事は毎日のようにしていますが、
この喜寿記念文集『河和田の絆』を作らせていただくということを、
印刷やとして、とても誇りに思うのと同時に、
この文集の中には77年というそれぞれの人の人生が詰まっていることを
強く意識しました。

たまたま制作部門が混んでいたこともあり、
手書きの原稿をたつやが入力しました。
原稿を打ちながら、感動したり感激したり、時には涙が流れることもありました。
それくらいそれぞれの人生には、ドラマがあって、
戦前、戦中、戦後の激動の時代を生き抜いた先輩方の生き様を感じました。

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Y先生や同級生の方が何度も弊社までお越しになり、
何度も校正を繰り返し、細かな点も手直しをして、
ようやく今月、納品することが出来ました。
表紙は同級生が描かれた絵を使い、中表紙や扉には越前和紙を使い、
A4フルカラー(一部モノクロ)80ページ弱の立派な文集が出来あがりました。

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ずっと完成を楽しみにされていたY先生の元に、
納期前に出来た一冊を持って、ご自宅へ行きました。
先生の家の前にあったモクレンがあまりにも美しいので、
カメラを持って写真を撮っていたら、
気配に気が付いたY先生が外に出て来られました。

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「せんせ〜、お待たせしました!できましたよ♪」
と言って先生の元へ駆け寄ると、
何とも言えない表情で、
「あ〜、うれっしゃ〜、ありがとの、藤田くん」
とおっしゃってくださいました。

日々、いろんな印刷のお仕事をさせていただいていますが、
こうしてお客様に心より喜んでいただき、
またこの一冊に昭和10・11年生河和田小・中学校の同級生の方々の
人生そのものが詰まっている文集を作らせていただけたことは、
本当にありがたいことと感謝し、印刷屋冥利に尽きる仕事でした。
それに文集の中には、空いたスペースに
たつやが撮影した河和田の風景を掲載してくださいました。

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Y先生、そして昭和10・11年生河和田小・中学校の同級生の皆さま
本当にありがとうございました。
この一冊がご家族にとってずっと大切な宝物になりますように。


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印刷のご相談、ご用命は明治36年創業の弊社、合資会社藤田印刷所に是非どうぞ。
このような小ロットの文集や自叙伝、句集や歌集、詩集などの出版物も承ります。


〒916-0057 福井県鯖江市有定町1丁目1-29
合資会社藤田印刷所  担当代表社員:藤田順一
TEL.0778-51-2805 FAX.0778-52-8543
e-mail:fujitapt@vega.ocn.ne.jp





最後にたつやが原稿を打っていて、とても感動した文がありました。
ご本人のご許可を得て、福井市在住の観篤子さんの文を、
ここで紹介させていただきます。

うちのおばあちゃん(夫の継母)  福井市 観篤子

4年前の5月11日、九十九歳で亡くなったおばあちゃん。
50年間同居して今思うことを書き述べたいと思います。

1.男の子四人(10.6(夫)4.2歳)の後妻として33歳でみえたおばあちゃん。
そして驚くなかれ結婚50日目で夫になる人が交通事故死。
親戚から「帰ったらいい」と言われたが
「この子等を置いては帰れない、なんとか育てます。」
この事を交際中に夫から聞いた時
「とてもとても私には真似のできなこと、一度お逢いしたい」と思いました。
それはそれは小柄な肩で、どこからそのエネルギーが出るのかと思いました。
また料理の上手なこと、私たちは外食すると出費がかさむので、
私の下宿先で語り合い、昼はおばあちゃんの手作り弁当を二つ持参。
その楽しさ、美味しさにびっくりしました。

2.生計を立てるため洋裁学校に通い、近所の仕立てものをさせて戴いた。
食べざかりだったので、大きな鍋に煮物をしても、すっからかんやったわねと、
笑いながら話す人でした。
夫の兄は国鉄勤務で、金沢へ転勤になり、丁度私には長男がお腹にいました。
「わたし篤チャンらと生活したい」と言われ、一安心しました。
 
一緒に生活して感じたこと。

1.夕食の用意、そして家計簿とレシート保存。
「いるもんはいるんやで、家計簿はいいよ。」と言ったら、
「そんなのいややわね。早から何に使こうたかと思われるのがいややでね」。
子供たち高校に行く時はお弁当は勿論、私にも。
県庁では「今日はどんなの?」とのぞきに来ました。

2.保育園、学校の保護者会、授業参観は大人3人が交代で。
大人の意見を統一するために「おばあちゃんも是非ね」
と言ったら、本当にうれしそう。
3人の子供と接する時間は、おばちゃんが一番長いんですもの。

3.自分の洗濯ものすべて自分の手で「おかあちゃん、洗濯機空いているかえ」。
ビニールの袋に入れた下着などかかえて洗い、干す、取り入れ、たたむは自分で。

4.明日の着るものは夜、枕元に。下着は毎日とりかえ。
私の子どもがそれを見ていて、実家へ行った時も実行して誉められました。
寝巻姿で家の中を歩くのは見たことがない。

5.70歳過ぎてからボケないようにと編物を習い出し、
最初の作品は実家の両親への肩かけ。私には車の座席カバーを。今でも重宝しています。

6.政治の動き、ニュースは実に詳しく教えられるばかりで、
頭を使って家族や友達、近所への心遣いは、大したものでした。
妹たち6人の子供の名前や、私の職場の人のことを忘れないのには驚きでした。

7.おばチャンの誕生日には、3人の子供たちが必ず贈物を届け、
米寿のお祝いにはメッセージも。
私は生んだだけ。育ての親だったと思っています。
誕生日の子供からの手紙やメッセージがそのまま保存されていました。
死後、福井医大へ献体することも。

8.忘れてはならぬ言葉。
「おかあチャン、あそこのお嫁さんは、年寄り一人の食事を部屋へ運び、
台所では若いもんが子どもらとワハァワハァと笑うのが聞こえるんやとね。
年寄りは早よボケなさいっていうんといっしょやがね」。

99歳まで病気知らずで、まわりに気配りをしながら
「若いもんには迷惑をかけられんでの」と近所の人には言っておられたとか。
ラジオ体操は冬でも外でやり、家の周りを掃除して「あー、お腹空いたわの」と食卓へ。
亡くなる一週間程日赤で様子を観る為、入院。
苦しがることもなく、家へ戻ってこられた時、薄化粧で着物を着たおばあちゃん。
今声をかけると「おかあちゃん!」と聞こえてきそう。
近所の人にこの様子を見てほしく呼びに行きたいと何度思ったことか。
人生の「生きた教科書」でした。






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posted by たつたつ・たつや at 22:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 印刷関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする