毎日のように空襲警報がなった。
すぐ近くに東芝の軍事工場があったためだ。
当時小学校6年生だった母は近鉄朝日駅で戦地に向かう軍人さんを
クラスメートと共に日の丸を降って送り出した。
たつやの母親は昭和16年から20年5月までを三重県朝日村(現朝日町)柿
というところに祖父の仕事の関係(東芝三重工場)で、住んでいた。
三重に行くもうひとつの理由は、ここを訪れてみたいことだった。
母がこの地を離れてから63年。
もちろん当時の面影など残ってはいないだろうが、
知らない街中を歩くことが好きなたつやにとっては、
少しだけ違った視点で朝日の町を歩ける気がした。
朝日町という道路案内板を頼りに走っていると
立体交差の左下に大きな工場の屋根が見えた。
その工場が東芝のものかどうかはわからないが、
立体交差を下りて小さな道を左に入り、
少し先の空き地にクルマを停めた。
その辺りにはかなり古い民家も残っている。
工場の近くまで歩くと
近所の子どもたちが歓声をあげて外を走り回っていた。
「ねっ、この工場ってトウシバ?」
「あっちあっちぃ〜」と指差す女の子。
どうやら、目の前の建物も東芝の工場なのだろう。
子どもたちが教えてくれたのは、
正面の建物なのだろうということは容易に想像がついたが、
その支持に従って高い塀垣の前の細い道を歩いた。
畑にはちょうど菜の花が満開だ。
こういう景色は昔も今も変わらないだろう。
母も同じ風景を見たのだろうか・・・。
やがて大きな建物が見えて正面に廻るとToshibaの赤い文字。
目の前の公園から母親に電話をかけた。
出かける前に、もしかすると朝日村に行くかもしれない
と言ってあったので、
近鉄朝日駅前から電話をかけても、さほど驚く様子もなかった。
しかしながら電話で案内されるがままに歩いた駅前から
母が通った朝日小学校までの道のりは完璧だった。
しかもたつやがクルマをとめた場所は、
その小学校から、わすかに100mと離れていなかったことの
偶然にも驚きを覚えた。
再び電話をかけて、今度は当時、
母が住んでいた東芝の社宅を訪ねることにした。
近鉄朝日駅から朝日小学校までの道も、小学校から社宅までの道も狭い道だが、
その道こそが旧東海道だった。
母の63年前の記憶では、その道沿いに油揚げや豆腐を売っていた
『こめき』という店があったらしい。
そこを右折し関西本線の線路を渡る。
そろそろかな?と思った頃に左手に『こめき』という看板が見えた。
近づいてみると、そこは豆腐やではなく洋品店だった。
ちょうど通りがかった母と変わらないであろう年齢のおじいさんに聞いてみた。
「すいません、つかぬことをお聞きしますが、
昔この辺りでこめきさんというお豆腐や油揚げを売っていたお店はありますか?」
「あっ、ありましたよ。そこの建物です。そこが何か?」
簡単に事情を説明し、お礼を言って別れた。
こめきを左折して、少し行くと踏切があった。
関西本線だ。
母の話だと、踏切を渡り少し坂を上がると左手に溜池があって、
その池の上辺りに社宅があったのだそうだ。
確かに坂になっていて登ると左手に溜池がある。
しかしながらコンクリートで護岸したプールのような池になっていた。
だけどその池の中では鴨がのんびり泳いでいる。
昔東芝の社宅があった場所には
やはり東芝のマンション形式の集合住宅が建てられていた。
母の話に出てきた、竹藪と桑の木畑ばかりだったところは、
閑静な高台の住宅地として分譲されていた。
たくさん採れた桑の実をスカートを広げ、風呂敷代わりした
と言った母の話を思い出し、その姿を想像しながら坂を降りた。
風は冷たかったが、確実に春の匂いを嗅いだ日だった。
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