たつやの部屋は一階の一番奥の陽当たりの悪い
じめじめしたところだった。
当時、大学からほど近いところでアパートを探したつもりだったが、
たつやが通う大学よりもK士舘大学に近かったこともあって、
そのアパートの住人の過半数はK士舘大学生だった。
しかもK士舘大学の世田谷校舎は三年生、四年生だけが通っていて、
一年生のたつやにとっては、近寄り難い存在だった。
そんなある日、近所のラーメンやさんで夕食を食べるたつやに
厨房から声をかけてくれた人がいた。
何処に住んでいるか聞かれ、青葉荘ですと答えると、
その人も青葉荘にいると言った。
部屋に遊びに来いと言われ、その日の夜に先輩の部屋を訪ねた。
先輩はK士舘大学4年生で名前はFさんと言った。
一見優しそうなFさんは日本民族研究会という部?の会長をしていて、
それは後から知ることとなったのだが、
とんでもない怖い方がたくさんいるサークルだったのだ。
でも違う大学のたつやに対しては優しい先輩だった。
しかしながらF先輩の同級生だったH先輩はめちゃめちゃ怖かった。
電車の中で本物のヤーさん三人を相手に、
大立ち回りをしたという伝説さえ持つ広島出身の人だ。
ある暑い夏にH先輩がたつやの部屋にやってきた。
ドンドン、ドンドンおう、F田ぁ、ワレおるか、ドンドン
ハイいま〜す。
ふぅ、暑いのぅ。
はい、暑いですね。
ところで、ワレ、明日ヒマかの?
あ、明日は大学の研究室の当番なんです。
ん?なんやソレ?
当時たつやはT農業大学の造園保護研究室というゼミに所属して、
害虫について研究をしていた。
そのため、研究室では膨大な量の昆虫を飼育していて、
誰かが夏休みも管理しなければならないシステムになっていた。
そのため、一週間単位でゼミ生が交代で当番をしていた。
ちょうどその日が最終の当番日だった。
ワレ〜、それなんとかならんかのぅ
ちょっとそればっかりは無理やと思います。
なんとかせ〜よ。あのなワレ、わしの言うこと聞いといたら、
え〜ことあるんやけどなぁと言ってギロリと睨んだ。
結局、後輩に一日だけ頼んで、
H先輩の頼みを聞くしか選択肢はなかった。
おう、ワレ悪いのぅ、バイトして欲しいんじゃ、一日だけのぅ。
バイト代弾むわ。6000円じゃ、な、え〜バイトやろ?
確かに一日ならいいバイトだ。
土方仕事でも良くて5000円だ。
ありがとうございます。
そんなにもらえるバイトって何ですか?
おう、まだ秘密や!
じゃが、明日朝早いからわしの家に泊まりに来いや。
えっ、と、泊まりですか?
初めて行くH先輩のアパートは、青葉荘から徒歩5分余りで着いた。
こんなに近いなら、泊まらなくていいのに・・・
四畳半の狭い部屋で、白黒テレビでナイターを見ていると、
突然、H先輩がテレビをパチンと消して、
おう、明日早いから寝るぞ、われも寝ぇ
と言って、電気も消した。
時計を見るとまだ8時だった。
目覚ましの音で目を覚ました。
H先輩は、電気を点けて、大きなアクビをした。
時計を見ると、えっ!?11時半。
12時にトラックが迎えに来た。
人が5人乗れて、後ろが荷台になっている工事用トラックだった。
最初、運転手とH先輩とたつやが乗り、
10分ほど走って、H先輩の後輩がふたり乗った。
東名インターの入り口に着くと、同じような工事トラックが、
7〜8台来ていて、どうやらそこに集まった学生は、
全員がH先輩が集めた人みたいだった。
夜中の一時に東名インターを出発し、
どうやら神奈川方面に行くことだけはわかったが、
相変わらず、H先輩は何処へ行くかを教えてくれない。
横浜を過ぎ、厚木も過ぎた。
御殿場を過ぎて、沼津も通り越した。
いったいどこへ連れて行かれるのか・・・
一日だけのバイトって、本当なのかな?
途中、トイレ休憩の時に、H先輩の後輩に聞いてみた。
やはり、無理やり連れて来られたということで、
何処へ行くかわからないと不安そうに話した。
ついに静岡インターチェンジも通り越し、
次の日本坂パーキングエリアで、トラックを降りた。
そこには、H先輩の知り合いの現場監督みたいな人がいて、
集まった30人近いアルバイト学生に作業内容の説明が始まった。
1979(昭和54)年7月11日18時40分ごろ、東名高速道路日本坂トンネル下り内で
乗用車数台と油脂を積んだトラック数台が絡む追突事故が起き、
7人が死亡し2人が負傷、173台の自動車が焼失するという
未曾有の大事故となった(日本坂トンネル火災事故)。
この事故のため、上りの日本坂トンネルは
二車線を対面通行として使用していた。
この日の翌日に、上下とも正常通りの通行が可能になる予定だった。
作業はいくつかに分かれたが、開始は午前5時。
たつやの担当はトンネル内の黄色車線をガリガリ削る機械の後ろで、
その粉塵をほうきで集め、ちりとりに入れ、袋に入れるというものだった。
8月終わりだったので、とにかく暑い。
しかもトンネル内で様々な作業車がいるので、その排気ガスが酷い。
加えて、黄色い粉にまみれて、粉塵が凄く、タオルを巻いていても、
すぐに喉がカラカラに乾き、咳が出る。
朝9時頃と12時、3時、5時に短い休憩があったが、
作業終了時は、午後8時だった。
世田谷に帰ったのは、午前1時過ぎだった。
しばらくして、F先輩にラーメン屋で会った。
おう、たつや、ご苦労さんやったな。キツイバイトやったみたいやな。
だけど、一日11000円はええバイトやなぁ。
え、ええええ!
たつやは6000円もらっただけですが。
ん?Hのやつ、しっかり儲けよったなぁ。
ちゅうことは・・・
一人5000円ピンはねしていただいたということ?
あの日来てた学生は30人近くいたから、
H先輩は5000円×30で、エッ、じ、じゅうごまん!!!
でも、あの日のH先輩は、一般アルバイト以上に、
土方仕事を一生懸命やってた。
ピンはねを微塵も感じさせず、頑張る姿は、
やっぱりカッコイイと思った。
あれから30年。
F先輩やH先輩は元気でやっておられるのだろうか?
先日、横須賀へ行った帰りの東名高速道路を走りながら、
そんなことを思い出した。
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