2006年05月22日

三国散策その2

種やのおばちゃんの店で荷物とバイクジャケットを預かってもらい、再び外に出た。
相変わらずの人と屋台が続く。
ほんの少し歩くと右手に大きなお寺があった。
立派な山門をくぐると青空をバックにひときわ美しいお寺(西光寺)が見えた。

西光寺.jpg

よく見ればその寺の屋根は微妙にカーブしている。
恐るべし日本建築!たつやは少しばかり木工をかじっているから、
その作り方がいかに大変かは容易に想像できる。
屋根勾配を直線にするのと曲線にするのとでは手間や計算、精度、材料などは、
倍や三倍ではきかず十倍以上ではないかと思う。
だけどなぜゆえこのようなカタチにしたのだろうか。
たつやの勝手な想像だが、三国はかつて北前船で栄えていた頃、様々な産業があった。
有名なところでは三国箪笥、それに仏壇なども盛んに作られていた土地柄。
だからこそ、三国の大工は、このような複雑な屋根のカタチを可能にしたのではないだろうか。
三国の職人の技と魂をこの屋根に表現したのではないか・・・?
空想がどんどん広がっていく。

こんな風に昔のことを想像するのも旅の楽しみのひとつだ。

西光寺をあとに、今度は旧道から一本山側の道を歩いてみた。
ほどなく左手にペン習字・三国焼という看板が目に止まった。
店の前にご主人らしき人がいたので挨拶して中を見せてもらう。
八畳くらいの店の中には、ビッシリ焼き物が並べられている。
その中にあったホントに小さい一輪差しがかわいくて、連れて帰ることにした。
それも「え〜、そんなに安くていいんですか?」と聞いたほどの価格で。

三国焼.jpg

奥様がペンで書いた階書の漢詩を見せていただいたが、
黒い紙に白の絵の具をペンで書かれていた。
見事なまでに揃った、美しい書体で、思わず写真を撮らせていただいた。

三国焼・楷書.jpg

そもそも三国焼という焼きものがあったのは1600年代後半。
北前船の衰退と共に、その窯元もなくなっていったが、
明治30年にこの店のご主人のおじいさんが復興したのだそうだ。
この横山藤介という方は、大変な文化人で、当時東京で流行していた
変形朝顔」(別名変化朝顔)の栽培をしていた。
朝顔の遺伝子の組み合わせでひとつとして同じ花や葉の形がない
という特徴に魅せられた人たちが同好会を作っていた。
その会員はそれぞれが変形朝顔の栽培をして、その花のスケッチを描くというもので、
大正五年に出版された画集を見せていただいた。
会員のほとんどは東京の旦那衆であったが、当時の三国の人が3人この会に
入っていたというのも、当時の三国の文化の高さを物語っている。

そんな高尚な話が聞けるのも、やっぱり旅の楽しみだ。

再び、少し歩くととても風情のある和菓子やさんを見つけた。
大和甘林堂http://392akinai.com/html/ymtk.htmlという看板が
旨そうな雰囲気を醸し出している。

大和甘林堂.jpg

「ここの名物は何ですか?」と尋ねると、店のおばちゃんは
鶯餅です。ほやけど、今日は祭りで全部売り切れてしまいました」
と申し訳なさそうに答えた。
そして、続けてこう言った。
「初めて来られた?でしたら中にひとつだけ残ってます。どうぞ食べてってください」

蜥餅.jpg

お代を払いますと言ったが、おばちゃんは首を横に振り、
「また来れれる機会がありましたら、お買い求めください」
と言って微笑んだ。
その場で開けて、写真を撮り、口に入れた。
最初、黄粉の香りが広がり、とても柔らかい口当たりのお餅と
甘いあんこが絶妙のバランスで和菓子の奥深さを味わった。

今度来た時には、お土産用にたくさん買って帰ろうと思った。

続く
posted by たつたつ・たつや at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 旅先にて・福井県内編 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする