相変わらずの人と屋台が続く。
ほんの少し歩くと右手に大きなお寺があった。
立派な山門をくぐると青空をバックにひときわ美しいお寺(西光寺)が見えた。
よく見ればその寺の屋根は微妙にカーブしている。
恐るべし日本建築!たつやは少しばかり木工をかじっているから、
その作り方がいかに大変かは容易に想像できる。
屋根勾配を直線にするのと曲線にするのとでは手間や計算、精度、材料などは、
倍や三倍ではきかず十倍以上ではないかと思う。
だけどなぜゆえこのようなカタチにしたのだろうか。
たつやの勝手な想像だが、三国はかつて北前船で栄えていた頃、様々な産業があった。
有名なところでは三国箪笥、それに仏壇なども盛んに作られていた土地柄。
だからこそ、三国の大工は、このような複雑な屋根のカタチを可能にしたのではないだろうか。
三国の職人の技と魂をこの屋根に表現したのではないか・・・?
空想がどんどん広がっていく。
こんな風に昔のことを想像するのも旅の楽しみのひとつだ。
西光寺をあとに、今度は旧道から一本山側の道を歩いてみた。
ほどなく左手にペン習字・三国焼という看板が目に止まった。
店の前にご主人らしき人がいたので挨拶して中を見せてもらう。
八畳くらいの店の中には、ビッシリ焼き物が並べられている。
その中にあったホントに小さい一輪差しがかわいくて、連れて帰ることにした。
それも「え〜、そんなに安くていいんですか?」と聞いたほどの価格で。
奥様がペンで書いた階書の漢詩を見せていただいたが、
黒い紙に白の絵の具をペンで書かれていた。
見事なまでに揃った、美しい書体で、思わず写真を撮らせていただいた。
そもそも三国焼という焼きものがあったのは1600年代後半。
北前船の衰退と共に、その窯元もなくなっていったが、
明治30年にこの店のご主人のおじいさんが復興したのだそうだ。
この横山藤介という方は、大変な文化人で、当時東京で流行していた
「変形朝顔」(別名変化朝顔)の栽培をしていた。
朝顔の遺伝子の組み合わせでひとつとして同じ花や葉の形がない
という特徴に魅せられた人たちが同好会を作っていた。
その会員はそれぞれが変形朝顔の栽培をして、その花のスケッチを描くというもので、
大正五年に出版された画集を見せていただいた。
会員のほとんどは東京の旦那衆であったが、当時の三国の人が3人この会に
入っていたというのも、当時の三国の文化の高さを物語っている。
そんな高尚な話が聞けるのも、やっぱり旅の楽しみだ。
再び、少し歩くととても風情のある和菓子やさんを見つけた。
『大和甘林堂』http://392akinai.com/html/ymtk.htmlという看板が
旨そうな雰囲気を醸し出している。
「ここの名物は何ですか?」と尋ねると、店のおばちゃんは
「鶯餅です。ほやけど、今日は祭りで全部売り切れてしまいました」
と申し訳なさそうに答えた。
そして、続けてこう言った。
「初めて来られた?でしたら中にひとつだけ残ってます。どうぞ食べてってください」
お代を払いますと言ったが、おばちゃんは首を横に振り、
「また来れれる機会がありましたら、お買い求めください」
と言って微笑んだ。
その場で開けて、写真を撮り、口に入れた。
最初、黄粉の香りが広がり、とても柔らかい口当たりのお餅と
甘いあんこが絶妙のバランスで和菓子の奥深さを味わった。
今度来た時には、お土産用にたくさん買って帰ろうと思った。
続く